旅行記 市町村取材日記


2006年3
月27日  〜特別編〜 覚王山 東山給水塔へ行って来ました。



 毎週月曜日は、東海三県のお宝めぐりをお送りしていますが、今日は特別編です。普段は入れない所へ入れてもらうシリーズ、覚王山にある東山給水塔に入れてもらいました。

東山配水塔は1930(昭和5)年に千種区覚王山地区一帯の高台への配水を目的として建てられ、1973(昭和48)年まで使用されてきました。老朽化のため、一旦は役目を終えた東山配水塔でしたが、1979(昭和54)年から災害対策用の給水塔として再利用されることになりました。

昭和ヒトケタの時代からこの地に立ち続け、今年で76歳を迎えた東山給水塔は、きのこのような風格ある姿です。

塔内の2階から4階までは、ミニミニ資料館になっていて、名古屋市の水道事業が開始された当初の部品類や書類、写真などが展示されていました。

5階で頭上を見上げると、大きな気球のような貯水タンクがありました。直径8.4m、深さ7.2mタンクでした。このタンクには10万人の1日分に相当するおよそ300立方メートルの飲料水が常時貯水されているそうです。

地震などの大災害で停電になるとポンプが停止して水道の供給もストップしてしまいます。こうして高架タンクに貯水しておけば、流れ落ちる水の圧力で応急的な給水が可能になるというわけなんです。

城山・覚王山地区魅力アップ事業実行委員会の木康光さんと一緒に、このタンクを取り囲むように設けられた6階展望台へ上りました。高木さんも初めて展望台に昇ったそうです。

この展望台の高さは27mですが、標高は90m。テレビ塔の展望台と同じ高さにあるんですから、それはそれはいい眺めでした。セントラルタワーズ(片方だけ)、ミッドランドスクエアー、テレビ塔、ナゴヤドームなどが見ることができました。この給水塔は現役稼働中の東山配水場の敷地内にあるため通常は公開されていませんが、毎年春分の日と8月8日の一般公開日に限って見学が可能になっています。次回8月8日に昇る時に、注目してほしい所も、木さんにお聞きしました。

次回8月8日に昇る方は、注意して見て下さいね。


2006年3
月13日  一宮市の「妙興寺」へ行ってきました。
 





 今回は、一宮市きっての名刹「妙興寺」に行ってきました。
 広大な境内は県の指定史跡になっていて、静寂な林の中を歩いていると京都の禅寺にいるような気分になりました。その境内には塔頭寺院が五つあり、勅使門、放生池、山門、仏殿が南北ほぼ一直線に並んでいます。総門を入ると勅使門があります。室町時代の創建当時から残る唯一の建築で、旧国宝で国の重要文化財です。勅使門というのは、宮廷からの勅使を迎えるときにのみ開かれる門という意味で普段は閉じられたままになっているそうです。

仏殿に入れて頂いたら、天井に立派な絵が描かれていて、不思議な空間になっていました。
昭和31年に描かれたもので、山喜多次郎太さんが描いたものです。洋画家が描いた油絵の竜として有名なものだそうです。青、緑、茶、黄色などで描かれていて、とてもカラフルでした。竜は、仏を守るという意味合いがあるそうです。毎月1日と15日には、仏殿の扉が開くそうですから、ぜひ見てみて下さい。この仏殿の瓦には、よく見ると立派な鬼瓦がありましたよ。

県の文化財に指定されていて、白い壁で覆われている鐘楼にも入れて頂いたんですが、床に古い鐘が置いてあったんです。よく見ると、ひびも見えました。妙興寺の大火災の時に叩きすぎて、ひびが入ったと言われているそうです。去年に新しい鐘に変えたましが、窓が小さくて出せないんです。その古い鐘は、南北朝の頃に作られた物だそうです。

妙興寺には建物だけで、国指定の重要文化財が1つ、県の指定が1つ、市の指定の物が17個もあります。




2006年2月27日  岡崎市の展示施設「八丁味噌の郷」へ行ってきました。

 




 今回は、みそ製造販売会社が運営する岡崎市の展示施設「八丁味噌の郷」へ行ってきました。「八丁味噌の郷」は、江戸初期創業の八丁味噌の老舗です。工場内は黒壁のみそ蔵が建ち並び、本社事務所から倉庫にいたるまで、古い建物に囲まれていて、タイムスリップしたような感覚になる場所でした。江戸時代末期に建てられた建物もあるということです。

展示施設の核となる「史料館」は、国の登録文化財に指定されています。精巧な石垣で、ぴたっと合わさっていました。これと同じような物は、現在ではもう作れないそうです。

史料館では、江戸時代から戦前まで続けられたという伝統的な仕込み作業の様子などが、人形を使ってリアルに再現されています。

史料館を出て実際のみそ蔵に入ると、杉の木で作られた大きなみそ桶が所狭しと並べられていました。

ここ八丁味噌の郷での製造工程は、大豆を蒸すのに1日、寝かすのに3〜4日、そして仕込みに桶を2年以上石積みして寝かすんです。その桶がたくさんありました。この6尺桶には、味噌汁30万杯分が入るそうです。

見学コースの最後には、みそ汁の試飲コーナーがあります。また、土産物コーナーのほかに飲食店もあって、「みそ煮込みうどん」のほか、「八丁みそギョウザ定食」「みそカレー」などみそ尽くしのメニューがズラリとならんでいました。

「八丁味噌の郷」の営業時間は午前8時半〜午後6時まで。年末年始を除き無休で、入場無料です。個人でもガイドさんがついて中を案内してくれます。飛び込みでも大丈夫ですが、少し待たなくてはいけないかもしれないので、事前に電話で予約しておくと確実です。
 

2006年2月20日  徳川美術館の「尾張徳川家の雛祭り」展に行ってきました。

 

 今年で19回目を迎える春の恒例展示会ですが、今回は2月11日から始まっています。今年の一番の目玉は、今年が初公開となる、名古屋市の旧家から徳川美術館に贈られた「御殿ひな飾り」です。

私たちが普段見ている物とは全く違う、間口と奥行きが2m70cm、高さが2m40cmもある、段ではなくて大きな木製の御殿にお雛様が飾られています。文楽の舞台のような物で、「六畳一間」くらいのスペースで展示されています。

この御殿は組み立て式で、一本一本バラバラになるそうです。釘は一本も使っていません。この御殿の奥のお雛様や人形がそれはそれは立派だったんです。

御殿に合わせて30cm〜35cmのお雛様がいて、1770年のものなんですが、そんなに古くは見えません。それは、人形と着物を別々にしまってあるからだそうです。人間が着るように、一枚一枚着せていくんです。御殿の組み立てだけで1日、人形に着物を着せるだけで1体1日かかるそうです。顔も大きくて、表情も豊かでした。

この他、明治から昭和にいたる尾張徳川家三世代にわたる豪華な雛段飾りや、戌年にちなんで様々な犬の人形が展示されています。入り口付近にある建中寺から借りてきたという高さ30cmもある対の犬の人形「犬張子」は、人の顔をしていて胴体は犬で、金粉を使いきらびやかな作りです。現有する物では、最大のものだそうです。

徳川美術館の「尾張徳川家の雛祭り」展は、4月9日まで開催しています。休館日毎週月曜


2006年2月13日  「見晴台考古資料館」に行って来ました。

 


  今回は、特別展「昔はみんなエコライフ−考古学に学ぶ省エネのヒント」を開催中の名古屋市南区の「見晴台考古資料館」に行って来ました。この特別展では、縄文時代から明治時代までの名古屋市内およそ900の遺跡の出土品を200点あまり展示し、環境にやさしい生活「エコライフ」を先人がいかに賢く実践してきたかが紹介されています。

「小エネに学ぶ省エネ」のコーナーでは、縄文土器から現代の煮炊きに使う鍋の形や場所の変遷をたどり、古代から人間がいかに効率よく食べ物を加熱することを考え続けてきたかを知ることができます。

縄文時代はずんどう型の器を使って地面を掘って火の上にじかに土器を置いていたんですが、弥生時代になると変化が生まれます。

弥生時代は熱効率を考えて、器を地面より少し高くした方がいいのではと考えたんです。台を置く工夫があって、さらに台をくっつけた器が使われるようになったようです。古墳時代には、場所の変化があり、かまどが出てきて、台のいらない丸い底の土器が登場しました。古代人は、私たちが考えているよりも、いろいろ工夫をしていたんですね。

「始まった環境破壊」のコーナーでは、古代でも環境破壊が行われていたことが、名古屋市内の発掘調査で分かっています。それを紹介するコーナーです。

弥生時代の村は、村をぐるっと囲むように堀が作られていたそうですが、その堀で見つかったたくさんの虫を調べることで、当時の環境破壊の様子が推定できるそうです。汚れた地域でしか生息しない虫がたくさん出ているそうです。弥生時代は、堀に糞尿や生活廃水を垂れ流していたんです。のどかなイメージがありますが、異臭漂うような村だったのではないかと考えられています。

特別展「昔はみんなエコライフ−考古学に学ぶ省エネのヒント」は入場無料。3月26日まで開催しています。休館日毎週月曜・第4火曜はです。

見晴台考古資料館には、堅穴住居の復元もあります。夏には、市民参加の発掘調査もあるそうですから、ぜひ参加してみて下さいね。
 

2006年1月30日  岡崎の「伊賀八幡宮」に行ってきました。

 



 


 今回は、岡崎の「伊賀八幡宮」に行って来ました。

伊賀八幡宮は、1470年に松平4代の親忠が松平氏の守護神・氏神として、三重県の伊賀より現在地へ移したのが始まりとされていて、徳川家の祈願社としてあがめられていました。

1933(昭和8)年に、本殿、幣殿、拝殿、随神門、神橋、石鳥居などが国の重要文化財に指定されました。目に触れる物のほとんどが国の重要文化財に指定されています。

拝殿へとつながる道にある石鳥居には、不思議な言い伝えがあるそうです。

鳥居は家康時代になってから動くようになったそうで、動いた直後に戦がおき、その度に徳川が勝利をおさめるので、岡崎の町民は鳥居の動きで戦が近いのを知り、すぐに臨戦態勢が敷かれたのだそうです。これは、伊賀町に住んでいた家康配下の伊賀忍者が、家康の命令で夜の内にひそかに鳥居を移動させて、町民の士気の鼓舞に利用させていたものだといわれて言われています。でも、とても人の力だけで一晩で動かせたとは思えませんでした。

鳥居が動くということは、普段と違ったことが起こるということで、神様の力が分かり、吉兆を表しているそうです。 拝殿へとつながる道には、石鳥居、神橋、そして随神門があります。この大きな赤い随神門は、お寺でいう仁王門の様な造りなんですが、普通に歩いて行くと見落としてしまいそうな見所があるんです。

門の左右に神様がいます。神主が朝廷に仕えるような姿で弓を持っているんです。屋根を支える四隅には、力士がいて頭で踏ん張って屋根を支えています。 屋根の下の彫刻も注目で、横の方から見ると、屋根の下に黒い色で細かな彫刻が施されています。ぜひ仰ぎ見て下さいね。

伊賀八幡宮には、拝殿に向かう前にも見所がいっぱいあるんです。 伊賀八幡宮には、松平徳川家の総氏神なので、家康の立身出世にあやかりたいと家運隆盛、事業発展、出世開運の祈願に訪れる人が多いそうです。一般の祈祷も国の重要文化財に指定された社殿で行なわれるという厳かなものです。

伊賀八幡宮のすぐ南側を流れる伊賀川は岡崎公園と並ぶ市内の桜の名所です。春にもぜひ出掛けてみて下さい。



2006年1月23日  「岐阜市歴史博物館」に行ってきました。

 





 今回は「ちょっと昔の道具たち」という企画展を開催中の岐阜市歴史博物館に行って来ました。130年〜30年位前のちょっと昔に使われていたさまざまな道具を紹介する企画展です。 会場では、子供の生活に密着した「学校」「まちかど」「家の中」「家のまわりの四つのコーナーを設け、昔の道具に実際に手を触れられる形で展示してありました。

  最初に出てきたのは、学校の教室でした。昭和10年代に作られた机といすを一クラ ス分並べて、教室を再現してありました。ここにある机の中で、昔実際に使われていた机が4台ありました。昔の机は、今の物とは随分違いました。 一番古い机は、脚の部分が底上げしてありました。机が作られた当時の子供は小さかったんですが、年月を追うごとに大きくなったので、かさ上げしたそうです。

  また、机の天板が外れるようになっていて、物を入れるときにフタを開けます。天板の表と裏の両方が使えるようになっていて、表はきれいで、裏は工作や画板として使ったそうです。昔の道具は、不便だと思いがちですが、知恵がつまっていたんですね。 この他、「まちかど」のコーナーでは、あめ玉やビスケットなどを入れたガラスケースのある駄菓子屋、ジュークボックスを備えた昭和40年代の喫茶店、家電の三種の神器と言われたテレビと冷蔵庫、洗濯機が並ぶ電器店などが再現されていまた。

 映画のセットのように再現された玩具店では、土曜と日曜には昔懐かしいベーゴマやビー玉などを買うことも可能で、40代前後の親ごさんが子ども連れで行くと話が弾みそうですよ。 「家のなか」という展示スペースは、火打ち石で火花を散らしたり、石臼で粉を挽いたり、そんなことが体験できるコーナーです。昔の人の知恵や苦労を、道具を動かしながら体験でき、物の有難さが分かるコーナーです。 会場内には、「ものしりはかせ」というボランティアの方がいっぱいいますから、分らないことがあれば、何でも聞いてみて下さい。

観覧料は高校生以上三百円、小中学生百五十円。3月12日日曜まで開催しています。 月曜日は休館日です。



2006年1月16日  名古屋市東区の「建中寺」に行って来ました。

 




 建中寺は、2代目の尾張藩主・徳川光友が、父義直の菩提を弔うために1651年に創建されました。江戸時代の境内は、およそ48.000坪におよび、周囲に石垣と堀をめぐらし、 本堂をはじめ数多くの堂が立ち、その壮大さは城下第一と言われたそうです。また、尾張徳川家の菩提寺として尾張藩士の心のよりどころとなっていたそうです。
 本堂は1787年に再建されたもので間口28メートル、奥行き25メートル、建坪700平方メートルで、現在、名古屋市内最大の木造寺院建築です。この本堂は、1787年の大火の 後に再建されたものですが、本尊の阿弥陀如来は大変珍しいものだそうです。
 胸の前で両手を前に出しているんですが、これは9つあるランクでは、中品中生の印となり、珍しいものだそうです。中流階級の中ということになります。普通の暮らしをした人を守るための阿弥陀様なんです。よく見る阿弥陀様は、お腹の前で手を組んでいますが、これは上品上生(じょうぼんじょうしょう)の印になります。

  この本堂の裏に、すごい場所がありました。「御霊屋」と言う尾張徳川家の歴代藩主の霊廟が造営されていて、尾張徳川家の初代から23代まで、先祖代々の位牌が祀ってありました。 今回は特別にそこの中まで入れて頂いたんですが、非常に重々しい雰囲気の中、厨子が並べてありました。その中の天井にびっくりしました。 住職の村上さんが、中学生の頃に台風がきて、その時天井に貼ってあった紙がめくれて落ち、中を見たら、菊の御紋が書いてあり消してあったそうです。明治維新の時に、役人から消しなさいと命じられたけど消えないので、紙を貼って隠したのではないかということです。 本当に、天井の一ます毎に菊の御紋が書いてあって、こすって消したけど消えない。そんなことが窺えました。この「御霊屋」の中で、厨子の前で座って手を合わせていると、350年前の義直の姿が浮かんできました。建物や古い物に触れると、歴史を身近に感じることができますよね。

 また、名古屋市の指定文化財の三門の楼上は、1651年の創建当時の建築物で、二階には、お釈迦様を中心として十六羅漢の像が祀られています。普段は公開していませんが、 ここも特別に見せて頂きました。門の上に上げて頂いたのは初めてでしたが、壮観な 眺めでした。
 



2006年1月9日  「甚目寺」に行って来ました。

 




甚目寺の始まりは、仏教が伝来した538年よりわずか60年後の597年、伊勢国甚目(はだめ)村の漁師龍麿(たつまろ)という者が,596年のある日,尾張国の入り江で投網をしていたとき、金色の聖観音像(しょうかんのんぞう)を引き上げました。それを喜んだ龍麿が入り江のかたわらに草堂を建て、その観音像を安置し、自らの姓氏をとって甚目寺(はだめでら)と名付けたのが、甚目寺の創建にまつわる伝承として残っています。甚目寺には1400年の歴史があるんです。

甚目寺は法隆寺や四天王寺に次ぐ我が国有数の古刹で、3つの国の重要文化財があります。三重塔は古墳時代に建てられたものが地震で破壊されたままになっていたものを、江戸時代になってから再建したものです。室町時代の建築様式で建てられたもので、木造の三重塔としては、高さ28mで日本有数の高さを誇ります。

南大門は、鎌倉時代の初め1196年の建築です。左右には一対の仁王像が安置され、運慶の作と伝えられています。そして東門は、室町時代1634年の建造で桃山時代の様式を残しています。

この甚目寺の本殿に下がっている鐘には、貴重なエピソードがありました。信長が長政との戦いに甚目寺の鐘を持って行ったが、忘れてきてしまったそうです。催促したところ、近江の西念寺の鐘を持ってきたんだそうです。元々の鐘は、4年前に岐阜の金華山の麓の寺で見つかったそうです。信長もいい加減なところがあったんですね。ちなみに、岐阜で見つかった鐘は、岐阜で文化財となって保管されているので、返してもらうこともできないそうです。

甚目寺には、ユニークなお参りの仕方がありました。甚目寺の霊験の七不思議があります。愛染明王(あいぜんみょうおう)は縁結びの神様で、三重塔に底の空いたひしゃくをかけます。ひしゃくがふさがっていると縁が通らないからです。ひしゃくは、縁が結ばれたり、耳がよくなって今度は縁が逃げないように、底を抜かずにお供えするそうです。三重塔には、たくさんのひしゃくがかかっていました。

この他には、子供が欲しい人が仏様を借りて家でお参りできる、通称「お猿さん」と呼ばれる仏様、恵比寿大黒さんは、仏糸を首にかけて念じて、それを仏様にかけてお願いします。

遊び心のあるお参りの仕方でした。



2006年1月4日  名古屋市役所に行ってきました。

 




名古屋市役所と言えば、老朽化のため止まっていたシンボルの本庁舎の時計塔が12月に203日ぶりに動き出しました。時計塔の裏の機械室というのは、どうなっているんでしょうか。行ってきましたよ。

本庁舎の屋上部分にあたる6階から、さらに灯台の中のような細い階段をさらに上がって行くと、地上40メートル部分、ついに機械室です。

ところが意外にも殺風景…。10m×10mの部屋の真ん中に櫓みたいなものが組んであって、その上にモーターがありました。一つのモーターで、軸が四方向に出ていて、四方向の時計を動かしています。30cm×30cm位のモーターが動かしていました。動かしているのは、小さなモーターでした。

ノートルダム寺院やカリオストロの城のような時計塔を想像していましたが、びっくり でした。時刻は、本庁舎の時計を制御する親時計の電波を受けて動く仕組みで、一つのモーターで、四方向の時計を動かしていました。20秒軸が動くと、外の時計の針が1分
動きます。

名古屋市役所の大時計は、昨年の5月に針を動かす軸受けや歯車などの劣化が原因で、動かなくなってしまったそうです。時計の文字盤は直径およそ3m、長針の長さはおよそ1.8m、短針はおよそ1.5m、これらも全て取り外して付け替えたそうです。

初代の時計塔は、名古屋市役所の本庁舎ができた時と同じ、昭和8年にできのですが、その初代の時計塔の仕組みにびっくり。初代は手動の部分があったんだそうです。重石が下の階まで下がっていて、その重石が落ちる力で歯車を回していたそうです。その重石を上げるのが手動で、その穴も残っていました。

動力が電動式の直流モーター方式になったのは昭和44年のことだそうです。大時計の改修は、それ以来ですから、36年ぶりのことになります。

今回の改修でかかった費用は、1785万円。超高級腕時計並みです!



2006年1月3日  セントレアの管制塔に入れてもらいました!!

 
  セントレアの管制塔は、全長92メートルです。建物の一番上、82メートルの高さにあるのが、管制塔の中心とも言うべき「飛行場管制席」です。ここの広さは、98.52平方メートル、およそ30坪の広さです。空港の全部を見下ろせなければいけませんから、それはもう素晴らしい景色でした。

ここで行われている業務は、航空機の離着陸の許可や指示を出しますことです。常時4〜5人の管制官が勤務しています。

そして、「飛行場管制席」より下にあるのがレーダー室で、6人の管制官が勤務していました。ここでは飛行中のパイロットと交信して、セントレアへの到着機の管制を行っています。飛行中のパイロットへの支持は全てレーダー室で行っています。平面のレーダーに高度と速度を表す数字が表示があって、そのレーダーを見ながら、着陸させる順位を決めていくそうです。三次元に考える立体的な仕事です。

管制官は、1チームが14人で、セントレアでは5チームあって、それぞれのチームが「飛行場管制席」と「レーダー室」とに分かれて勤務しています。

「飛行場管制席」での意外な仕事があって、飛行場のライティングシステムもここでスイッチを入れています。人間の目で確認して操作をしなくてはいけませんし、パイロットから明るくしてくれとか、眩しいという要求もあって、すぐに操作をするそうです。


2006年1月2日  「ウエスティン・ナゴヤキャッスル」のインペリアルスイート

 

我々には縁のない?ホテルのVIPの方が泊まるというスイートルームに入れてもらおうということで、ウエスティン・ナゴヤキャッスルに行ってきました。10階にある、広さが146平方メートルというインペリアルスイートです。

インペリアルスイートには、リビングダイニングの奥にダイニング、リビングには液晶テレビまでありました。その次の部屋は、寝室で、広いベッドが二つありました。窓からは、名古屋城の天守閣がきれいに見えました。

インペリアルスイートですから、これだけではなくて、寝室のさらに奥には、浴室があって、床は大理石で、大きなドレッサールームや、ガラス張りのシャワールーム、さらに別に浴室があるんです。
このインペリアルスイートをまとめますと、広さが146平方メートルで、シャンデリア

付きのリビングダイニング、寝室、シャワー、浴室、トイレが2つ、そしてキッチンもありました。扉が重厚でクラッシックな趣きでした。

このインペリアルスイートに泊まれるのは、特別な方、例えば皇室の方が名古屋にいらっしゃった時にお泊りになるそうです。我々も、もしかしたら泊まれるかもしれませんので、ホテルの方に問い合わせてみて下さい。値段は、通常価格で1泊30万円!この一つ下のランクの広さ86平方メートルのサロンスイートが1泊15万円だそうです。

ところが、3月31日までは、株式会社ナゴヤキャッスル創立50周年記念のアニバーサリープランというのがあって、サロンスイート(通常1泊15万)、コーナースイート(通常1泊13万)、キャッスルスイート(通常1泊11万)に半額で泊まれて、さらに期間中に50歳になる方、金婚式を迎える方は、このインペリアルスイートに同じ料金でグレードアップ可能だそうです。


2005年12月26日  「安城市歴史博物館」に行ってきました。

 

 

 

 


  安城市歴史博物館では現在、「畏(かしこ)きものたち‐東海地方のまじないと文化」という、愛知県埋蔵文化財センターとの共同企画展が開かれています。
 今回展示されているのは、愛知県下から出土した呪術関係の考古資料で、弥生時代から18世紀までの400から500点あまりが展示されています。これらは、普通の生活では使われない物、何に使われたのか分からない物がほとんどなんです。

 例えば、円窓付土器は中央に丸い穴が開いているので、実用できない。となると、祭祠関係かとなります。人形(ひとがた)は、祓えに使用した道具だろうと考えられています。
使い方は、人形でその人の体を撫でて穢れを付けて、川に流していたそうです。 この他にも、ミニチュア土器や、墨で土器の裏に[柿」「神」と書かれている物もありました。
  また、陶器の馬の置物も。馬は水に密接な関わりがあるそうです。黒い馬は、雨乞い用で、白い物は雨を止めるための物だそうです。元々は、本物の馬を神様に捧げていたんですが、馬は高価ですから、陶器に変わったんだろうと考えられています。絵馬の前身だそうです。
  会場の外では、歴史体験コーナーがあります。 貝塚で発掘された貝に実際に触れたり、銅鐸の「どうたくん」作り、縄文の布を器具を 再現して編めるような場所になっています。 「畏(かしこ)きものたち」展は、来年2月19日まで、安城市歴史博物館で開かれています。入場料は、一般300円、中学生以下は無料です。  月曜は休館日で、12月28日から1月4日、10日火曜は休館日で、1月9日月曜は開館 しています。



2005年12月19日  「名古屋市博物館」に行ってきました。

 


 名古屋市博物館では現在、「写真家 寺西二郎の見た昭和」展を開催しています。 アマチュアカメラマンの寺西さんから寄贈を受けた写真資料の中から、昭和30年代から40年代に名古屋とその周辺を街頭スナップした写真600点余りで構成され、戦後、昭和 時代の一時期を紹介する写真展です。  この写真展の会場に入ると、写真が所狭しと並んでいるんですが、年代順ではありません。地域ごとにまとめてあり、名駅から大須、栄、そして東山動物園や名古屋港へと 続く道のりです。ぶらぶらと歩いている気分でした。  写真を見ていると、昭和40年のテレビ塔の周辺は高いビルはなかったということが分か りますし、とにかく人々の顔がキラキラしています。大人も子供も、豊かではないけど、 その暖かさが伝わってきました。懐かしむこともできて、その時代のことを知ることもで きます。



  また、この会場の前の無料スペースにも、すごい写真がありました。 駐留アメリカ軍の通信学校の講師として、20年間日本に滞在したウィリアム・ペリー さんが、滞在中に各地で撮った写真が展示してあって、昭和24、25年頃の名古屋を紹介するスペースになっています。しかも、当時としては珍しいカラーで撮影されています。 最近撮ったんじゃないかと思うような、色鮮やかなカラーで、当時の名古屋が伝わって きました。ペリーさん本人の意向で、無料スペースでの展示になっています。 この「写真家 寺西二郎の見た昭和」展は、来年3月5日(日)まで名古屋市博物館で 開催しています。ぜひ観に行って下さい。


2005年12月12日  名古屋市中川区の「荒子観音」に行ってきました。

 


寺伝によると、荒子観音は729年の創建当初は現在の高畑一丁目付近にありました。その後衰退しましたが、永禄年間(1558〜70年)に現在地に移り再興され、荒子城主だった前田利家により1576年に本堂の改修が行われ再興されました。

江戸時代になると、笠寺・竜泉時・甚目寺と並んで、尾張四観音として栄えました。境内にある多宝塔は、1536年に再建された名古屋市内最古の木造建築物です。

荒子観音は、漂泊の僧円空ゆかりの寺でもあります。円空は23歳から全国行脚に出て、64年の生涯におよそ12万体の仏像を彫ったと言われ、全国各所に荒削りながら素朴で親しみのある木彫仏を残しています。その12万体の円空仏で現在も分っているのが4562体あって、そのうちの1241体が荒子観音にあります。

円空は、1676年に荒子観音で仁王像を彫りました。その仁王像は高さ328.5cmで、直径3メートルの木曽のひのきから彫ったそうです。円空は仁王像を池に浮かべて彫り、その時、鉈から飛び散った木っ端が池に浮かび、それを拾いあげて彫ったのが木っ端仏です。その1020体の木っ端仏が昭和48年、住職が多宝塔内を清掃中に祭壇の裏から発見されたんです。当時は大きな話題となりました。

円空仏は、すべて微笑んでいます。木っ端仏は、小さなものは3cmくらいのものまであり、まさに木っ端で彫った感じがしました。

円空仏は、毎月第二土曜日の午後1時から4時まで一般公開されています。ぜひ出掛けてみて下さい。


2005年12月3日  「長光寺」に行ってきました。

 


 今回は、稲沢の「長光寺」に行って来ました。清洲の駅を降りて北へ1kmほど歩いて行くと、住宅街の中に忽然と長光寺が見えてきます。そこだけ、時間が止まっているような感じさえしました。
  長光寺は1161年に平頼盛(頼盛の母は、源頼朝を救ったことで知られる)が創建、1336年に足利尊氏が復興し、長光寺寛林院と号されたそうです。

 長光寺には、二つの国の重要文化財があります。
  まずは、仁王門をくぐるとすぐに見えてくるきれいな地蔵堂です。地蔵堂は、全国にも例の少ない六角堂で、通称「六角堂」と呼ばれていて、この辺りの地名にもなっているんです。この六角堂は、まるで、遊園地にあるメリーゴーランドみたいな建物でした。 六角堂の外には、鰐口がかかっていて、この鰐口は、天正11年の6月2日にかけられたそうです。 日付が正確にわかっているのは、理由があって、その一年前に本能寺の変があり、信長の一周忌に上げられたそうです。鰐口自体は、南北朝時代の物で、県の重要文化財に指定されています。

この六角堂の中に安置されているのが、鉄仏の地蔵菩薩立像です。国の重要文化財 に指定されています。この地蔵菩薩立像は「鉄仏」とは思えない美しさで、この鉄地蔵様は、不思議な力があるんです。 汗かき地蔵と言われていて、世の中に異変が起きる前に、全身に汗をかくそうです。最近では、伊勢湾台風や第二次世界大戦の前に汗をかいたそうです。できれば、汗をかかないですむ世の中であってほしいですね。 鉄地蔵は、訪ねてもらえれば、開けて見せてもらえるそうです。


2005年11月30日  稲沢の「長光寺」に行って来ました。

 


清洲の駅を降りて北へ1kmほど歩いて行くと、住宅街の中に忽然と長光寺が見えてきます。そこだけ、時間が止まっているような感じさえしました。お寺の入り口は、立派な仁王門でした。

長光寺は1116年に平頼盛(頼盛の母は、源頼朝を救ったことで知られる)が創建、1336年に足利尊氏が復興し、長光寺寛林院と号されたそうです。

長光寺には、二つの国の重要文化財があります。

まずは、仁王門をくぐるとすぐに見えてくるきれいな地蔵堂です。地蔵堂は、全国にも例の少ない六角堂で、通称「六角堂」と呼ばれていて、この辺りの地名にもなっているんです。この六角堂は、堂の平面は小さくて、その周囲に吹き放ちの空間があります。三方から昇れる階段があります。まるで、遊園地にあるメリーゴーランドみたいな建物でした。

ふたつめは、この六角堂の中に安置されている鉄仏の地蔵菩薩立像です。この地蔵菩薩立像は「鉄仏」とは思えない美しさで、この鉄地蔵様は、不思議な力があります。汗かき地蔵と言われて、世の中に異変が起きる前に、全身に汗をかくそうです。最近では伊勢湾台風や第二次世界大戦の前に汗をかいたということです。できれば、汗をかかないですむ世の中であってほしいですね。

鉄地蔵は、訪ねてもらえれば、開けて見せてもらえるそうです。


2005年11月28日  「密蔵院」に行ってきました。

 


密蔵院は、1328年に創建され、僧の修行や位を授受する場として栄えました。戦国時代末期に衰退したものの、寺運盛んな時代には末寺が全国で700以上、3,000人を超える修行僧がいたといいます。

当時は、西の比叡山、東の上野寛永寺、中の密蔵院と言われていて、天台宗の三大寺院と言われていたそうです。

しかし、今では往時の隆盛を偲ばせる中世の建物は、室町時代初期に建立された多宝塔しか残っていません。その多宝塔は、国の重要文化財に指定されています。

境内に入ると、すぐに目に入るのがその多宝塔です。姿がきれいでした。多宝塔は天台密教系の寺院に多い建造物ですが、これは禅宗の様式を取り入れた珍しいものだそうです。

もう一つの国の重要文化財の木造薬師如来立像は、おそらく藤原期の初期の作と推定され、開山慈妙(じみょう)上人が比叡山から拝請されたものと考えられています。

この密蔵院 には指定文化財が29件あります。


2005年11月21日  「虎渓山永保寺」に行ってきました。

 


紅葉で有名な永保寺の建立には伝説があります。夢窓疎石、仏徳禅師ら一行が旅の途中で道に迷い、どうしたものかと思案していると、谷川沿いに白馬にまたがった女性が現われ、こつ然と姿を消しました。国師が祈ると、さきほどの美女が黄金の観音様になって、岩の上に出現しました。これこそ仏のお告げだとして国師はその観音様をご本尊として寺を開いたといいます。 永保寺には、3つの国宝があります。1314年に建立された観音堂と1352年に建立された開山堂と、そしてその開山堂の中にある宝篋印塔の3つです。 観音堂には、その夢窓疎石が遭遇した観音様が祀ってあります。この観音堂の中を見せてもらったんですが、観音様を見てびっくりしました。流木を組み合わせて岩のようになっていました。「岩窟式厨子」というそうです。 この観音様を、見るための裏技があります。毎日10時半ごろ、お努めがあって、観音堂の扉を5分くらい開けるそうですから、ぜひ狙ってみて下さい。
もう一つの国宝の開山堂は、神社建築の権現造(ごんげんづくり)の原型といわれています。ここには開祖夢窓国師、開山仏徳禅師の木像や、もう一つの国宝の宝篋印塔と言われる石造の五輪塔が安置されています。足利尊氏によって建てられたと伝えられています。 毎年3月15日には、開山堂も観音堂も一般公開されて、中に入れるそうですから、その時を見逃さないで下さい。


2005年11月14日  「津島神社」に行ってきました。

 


津島神社と言えば、織田信長も感嘆したと いう天王祭で有名です。その津島神社は、6世紀の中頃の創建と伝えられています。およそ3000の末社を持つ津島神社には、たくさんの宝物や文化財があります。太刀や剣、建物では本殿と楼門が国の重要文化財に指定されています。 津島駅から車で真っ直ぐの一本道を行くと、楼門が見えてきます。重要文化財に指定されているくらいですから、立派な造りです。この楼門は、1591年の建立で、あの秀吉が寄進 したという伝えがあります。
 
もう一つの重要文化財の本殿は、今年で建立から400年を迎えました。家康の4男の松平忠吉の妻が、病弱であった夫の健康祈願のために寄進したものだそうです。この本殿には、秘密があったんです。本殿にはなんと、豊臣家、徳川家、織田家といった尾張御三家の家紋が付いているんです。拝殿、回廊の横を抜けると、本殿の横をちらりと見ることができます。 天王祭は7月に行われますが、この天王祭は国の重要無形民族文化財に指定されています。つまり、この天王祭を入れると、津島神社には5つの国の重要文化財があることになります。楼門も本殿も、解体修理はしていませんので、建立された当時のままの姿でそびえ ていますよ。
 


2005年11月7日  名古屋城・
東南隅櫓特別公開をレポートしました
 


今回は、名古屋城に現存する三つの隅櫓(すみやぐら)の一つで、国の重要文化財に指定されている「東南隅櫓(すみやぐら)」に行って来ました。 この東南隅櫓は、普段は公開されていませんが、今、11月23日まで特別に一般公開されているんです。

そもそも「隅櫓」とは、見張りと攻撃の拠点で、ここから弓や銃を撃ったりしたそうです。また、武具の倉庫としても使われていました。 この東南隅櫓は、1612年の名古屋城創建当時のままの姿で残っています。戦争でも焼けなかったんですよ。 この名古屋城の東南隅櫓は、外から見ると2階建てに見えますが、中に入ると3階構造なんです。
 
2階に上がると、4つある面のうちの2つに、細長い四角の穴が開いていますが、この穴は、敵が石垣を登ってきたら、石を落としたり、弓や銃を撃ったりできるようになっていて、「石落とし」と言われるものです。

この隅櫓の中に入ると、歴史の重みを感じました。この柱で、江戸時代の下級武士が見張りながらもたれていたのか…とか。その当時のままのものですからね。
現在、名古屋城では、名古屋城の秋の風物詩をなっている菊花大会と「華の明治」 をテーマに、菊により装飾された人形10体などを展示する菊人形も開催されています。東南隅櫓の公開と共に11月23日水曜日までです。 東南隅櫓は、毎年秋にしか公開されていませんから、この機会にぜひ見に行って下さい。


今回は、江南市にある藤で有名な曼陀羅寺に行って来ました。

曼陀羅寺は、後醍醐天 皇の王政復古の祈願所として1329年に開創されました。

この曼陀羅寺には、4つの国の重要文化財があります。 まずは、正堂。蜂須賀家政公が幼少の頃に、塔頭の本書院で学んだ縁によって1632年 に再建されました。南北朝期の紫宸殿を模して作っています。

次に書院。1592年の建立で、南北朝の薫り高い書院です。お坊さん達の学問所、書斎 として使われていました。実は、関ヶ原の合戦の時に、徳川方が戦会議を開いた場所なんだそうです。ここでの会議の後、岐阜城を攻め落としたそうです。

そしてびっくりしたのが、銅鐘(どうしょう)です。高さ47cmの小さなもので、鐘の上に竜が付いています。この銅鐘は、あの秀吉が朝鮮半島へ攻めこんだ時に持ち帰ったというものだそうです。朝鮮では戦の時に使われ、日本では、竜は水を呼ぶということから、雨乞いの品として使われたそうです。

この銅鐘は、毎年4月29日から5月5日までの「藤まつり」の時に見れるそうです。 あと一つ、曼陀羅寺には、浄土五祖像(ごそぞう)という国の重要文化財があります。

こんなお宝の宝庫の曼陀羅寺ですが、江南市にある5つの重要文化財のうち、4つは曼陀羅寺にあるんです。また、115ある文化財のうち半分近くが曼陀羅寺にはあります。4月下旬からの「藤まつり」で、こうした文化財の一部を拝観することができますよ。
銅鐘
 

犬山城は、江戸時代より前の1537年に織田信長の叔父にあたる織田信康に よって建てられました。

この犬山城のある「位置」は、尾張と美濃の境目にあります。木曽川の向こうには金華山も見えるし、対岸には美濃の国の砦の址もありました。お城の高さが19m、海抜100mからの景色ですから、素晴らしい眺めでした。

お城の中で、注目して見てほしい場所は、1階部分です。三角形の造りになっている場所があります。そこだけ一間広がっていました。何か理由があるはずですが、今となっては理由は分からないそうです。  
この他にも、1階の納戸の間の床にも注目して下さい。かんなのなかった頃の板の間がそのまま残っています。手で触ると、微妙にデコボコしていました。

また、柱も、古い柱ほど角を深く削ってあり、八角形に近くなっていました。これは、技術の差だそうです。新しい解体修理をした後の木と比べると一目瞭然ですから、ぜひ見比べて下さい。

  東海三県の国宝や重要文化財を巡る取材レポート。

 第一弾は、東海三県で唯一の五重塔、名古屋市の八事にある「興正寺の五重塔」に行って来ました。

興正寺の五重塔は、1801年、文化5年に、1688年に興正寺が建立されてから113年遅れて作られました。

五重塔は、塔自体が仏様。お釈迦様のお骨を納めた塔なんです。そして、その建築法には、現代にもひけを取らない耐震構造が使われていました。上から下まで通る一本の柱「心柱(しんばしら)」の下が浮いている。振り子になっていて、揺れても大丈夫な作りになっています。知多の大工が建てたという興正寺の五重塔ですが、様々な最新技術が取り入れられていたんですね。

執事長の梅村正昭さんは、興正寺は前線基地で、砦的な意味合いがあったのではないかと考えていらっしゃいます。五重塔は物見なのでは!?軍事施設は作れないけど、宗教施設ならという意味があったのかもしれないですね。

また、興正寺の中には秘密の間道もあって、その間道は名古屋城につながっているという噂も!!何かあった時に名古屋城から逃げて来れるように作られたらしいですよ。歴史の浪漫を感じますね。




2005年8月3日(水) 愛知万博「藤岡の日」トークショーのステージにて

愛知おまつり広場の「藤岡の日」ステージにゲスト出演。番組で以前“町の話題”を取材したご縁もあって、藤岡の懐かしい皆さんと再会できました。

ステージから客席を撮った写真です。皆さ〜ん、ありがとうございました!



2005年6月20日(月) 葉っぱに描いた「彩漆画(うるしアート)」

万博のイギリス館で来場者(毎日先着250人)に合板の葉っぱがプレゼントされています。その葉っぱに、舞子さんと五重塔の「彩漆画(うるしアート)」を描いた春日井在住の画家、森敏夫さんです。

イギリス館に寄贈したい、と番組に相談してくださったのがご縁で、『モあい』が仲を取り持つことができました。

イギリス館の政府代表である、イギリス総領事のニールさんに、森さん自ら贈呈!ニールさんはじめイギリス館のスタッフの皆さんに、とっても喜んでいただけました。館内に飾っていただけるそうです。

イギリスでよく見る樹木の葉っぱに、見事な“日本の美”が息づいた。 立ち会えた僕も嬉しかったです。これぞ国際文化交流!!

2005年6月8日(水) これが「一宏作の器」です!

道の駅「土岐美濃焼街道」どんぶり会館 の“陶芸体験教室”で作った“器”に数々が、完成しました。どうです! なかなかの出来でしょう?

ぜひ皆さんに使っていただきたいと、今朝の番組でプレゼントのお知らせをしました。

ただし、黒い“一輪ざし”だけは、奇跡的な出来だったので、スミマセン、我が家で使わせていただいてます。


2005年5月7日〜8日“体験取材”に 大満足!

「ドライビング・オアシス」の取材で、
 道の駅「そばの郷らっせいみさと」と「土岐美濃焼街道」に行ってきました。
  それぞれで体験できる“そば打ち”と“陶器作り”に挑戦!
   意外?にも「なかなか上手です〜」なんて褒めて貰えて大喜び。
      どちらも本当に面白かったです。ご家族連れでぜひどうぞ!
 5月18日・25日・6月1日・8日のコーナーで、詳しくお伝えします。
 

道の駅
「そばの郷らっせいみさと」
シバザクラの前で
「シバザクラソフト」をぺロリ!
「そば打ち体験道場」で
初挑戦!
     
見事に四角く伸ばせました!
見て見て!自分で切ったんですよ。
みさとこまちの小林さん、ありがとう!
     
道の駅 「土岐美濃焼街道」
通称“どんぶり会館”
ロクロや手びねりで
陶器作りができます。
力の入れ方が難しい。
真剣です!
     
焦ってはダメ!
慎重に慎重に・・・。
(自分では)大満足の
作品が出来ました!

指導(多少お手伝い)して下さった
スタッフの田中さん、ありがとう!