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夏体験ものがたり 定期列車

残席わずか(本当)
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親子「犬」の字

ロンドンオリンピックも閉幕。すっかり腑抜けになっています。
連夜のメダルラッシュに、睡眠時間を切り詰めた甲斐があったものです。
朝型や夜型を超越した、愉しい夏休みを過ごすことができました。

とはいえ、リアル夏休みのないのがこの稼業。
≫ツアーは夏休みではありません
一方息子ことらは毎日が夏休み。どーする!?思い出づくり。

『稲葉さん、吉見選手…忘れられない一日』 日々

2008年、当時は東海ラジオの野球解説者だった稲葉光雄さんが、ドラゴンズの沖縄春季キャンプ取材から帰ってきたときのこと。稲葉さんが興奮していた。「大澤さん、スゴいピッチャーがいたよ。吉見。素晴らしいフォームで投げていた。ブルペンの中でピカイチ」と早口で言った(野球のことになると熱くなるから…)。開幕前の番組でも、「注目の選手は吉見」と言っていた。稲葉さんの理論を体現した理想的な投げ方、それが吉見一起選手の投球フォームだったそうだ。ただ、吉見選手はドラフト希望枠入団だったとはいえ、そのときは通算1勝の投手。稲葉さんが推すこの吉見という投手、さあいくつ勝つのだろうと、私は期待半分で注目した。

その春季キャンプ、ブルペンで投球練習を終えた吉見一起選手は、球団関係者を通じ、ネット裏の見知らぬ?中年男性に呼ばれた(注・稲葉さんによれば、吉見選手はそのとき「誰だろう?知らないオッサンだな…」みたいな顔をしていたと言っている)。それが、稲葉さんと吉見選手の初対面だった。見知らぬ中年男性は「いま、君は素晴らしいフォームで投げている。今年、間違いなく勝てるから、自信を持って続けなさい」と言った。このときの稲葉さんと吉見選手の会話は、その後、稲葉さんから自慢話のひとつとして、何度も何度も聞くことになるのだが(笑)。

そして、2008年、吉見選手は初の10勝を挙げ、以後2けた勝利を4年も続けている。



(写真・ナゴヤドームに設けられた弔問記帳台)

「稲葉さん、ロンドンオリンピックが終わりました。きょう8月15日は終戦記念日です。でも、今日という日が、残念ながら稲葉さんの閉会式になってしまいました」という言葉で始まった、鈴木孝政2軍監督の弔辞。鈴木さんがプロ入りした前年、20勝を挙げてバリバリの主戦投手だった稲葉さん。2人の思い出を、涙で言葉に詰まりながら、悔しさを押し殺しながら語った鈴木さん。私はハンカチが手放せなくなりました。喪主である彰子夫人。「いつもと同じように『いってきます』と家を出たが、『ただいま』は聞けませんでした」「家では、私だけの野球解説者でした」、素晴らしいご挨拶だった。平凡な日常こそ幸せなのだと改めて教えてもらった。そして、ユニホーム姿でお別れをする全コーチ、選手、スタッフ。稲葉さんが「あいつは全然なってない!」と怒っていた若手選手ほど、きょうは涙を流していた。人目を憚ることなく泣いていた。愛がないと怒れない。その愛はきちんと伝わっていた。そして、若手だけではない。ベテラン選手も涙を流していた。稲葉さんの棺を、涙を浮かべながら、山本昌選手が、山﨑選手が運んでいたのが見えましたか?



(写真・8月2日、ナゴヤ球場のマウンドで振りかぶる稲葉さん)

きのう、登板前日は報道陣とはほとんど話をしない吉見選手が、私に話しかけてきた。「大澤さん、ブログを読みました」。稲葉さんの亡くなった翌日、私がブログに載せた拙い文章を、吉見選手が読んでくれたそうだ。登板前日、吉見流の調整に配慮すれば、ゆっくり話す時間はない。でも、吉見選手が「僕、ひとつ心残りがあるんです。稲葉さんに『勝ったときのドアラのぬいぐるみ、もらえないか』と頼まれていたのに、渡していなかったんです」と。私は「そうか。でも、あした勝てば最高のプレゼントでしょ。僕も実況だから、絶対に勝ってくれよ。頼むな」と言ってしまった。変なプレッシャーをかけてはいけないとは思いながら、言ってしまった。言わずにいられない、なぜなら、エース・吉見一起だから、稲葉さんが「最高」と認める吉見一起だから。吉見選手は「頑張ります。やりますよ」と返してくれた。

火曜日の時点で、きょうの中日対巨人、吉見選手が必ず勝ってくれると信じていた。



(写真・同じ日、おどける稲葉さん)

稲葉さん、観ていましたか。聴こえましたか。さすが、稲葉さんが「最高」と認める投手ですね。吉見選手がジャイアンツ相手に完投勝利ですよ。

吉見くん、やっぱりスゴイわ。数時間前に稲葉さんと別れを告げても、マウンドに立ったらいつも通り投げる。さすが「最高」の投手です。

大澤アナウンサー。吉見選手のマネをして、冷静に冷静にと思いながらマイクに向かったけれど、最後は涙を堪えるのに必死でしたね(苦笑)。きのうはほとんど眠れなかったけれど、よく頑張ったと思います、今夜は。

頭の中を何度も何度も巡るきょうの出来事。ここ数日の出来事。アナウンサーになって15年、忘れられない一日になりそうだ。

『震えた…』 日々

きょうは試合前に

故・稲葉光雄2軍投手コーチの

追悼セレモニーが行われました。

私が司会進行を仰せつかったのですが、

満員のナゴヤドームが静まり返るなか、

一切の読み間違いは許されないという極度の緊張に、

珍しくマイクを持つ手が震えました。

追悼セレモニーは滞りなく終了。

稲葉さん、

稲葉さんのおかげで無事に終わりましたよ。

「きょうは絶対に勝ってくれ!」と願った巨人戦でしたが…



完敗。

ショックに震えました…。

あしたは稲葉さんの葬儀、告別式に出席したあと、

ナゴヤドームの中日対巨人を実況します。

解説は、稲葉さんの教え子である野口茂樹さんです。

大丈夫。

あしたはエース吉見一起選手が、

稲葉さんにウイニングボールを届けてくれます。

『韓国料理と甲子園と』 日々

大阪・北新地にある

韓国カニ料理専門店「プロカンジャンケジャン」へ。

あのチャングンソク(名前くらいしか…)が愛する味、

あのT-ara(何人組?)も来店した大阪店。



生姜とニンニクが入った醤油ベースのタレにワタリガニを漬け込んだものが

カンジャンケジャン。

これを手でがぶりと食らいつき、



隅々まで吸い尽くすわけです。



おいしい。

今まで経験したことがない味わいです。

ただ、結構いいお値段ですが(笑)。

そして、そのまま甲子園球場へ。

きょうは地元・県立岐阜商業高校の登場です。



お盆休みの上、大阪桐蔭高の試合があり、

早々に満員札止めの甲子園。

大阪桐蔭の試合終了を炎天下待ち続けること1時間半、

やっと入場券を入手。

3塁側内野席で県岐阜商を熱烈応援。

かちわりで涼を取りながら。



しかし、ダメだった…。

新潟明訓高に完敗。

岐阜県代表の夏は終わりました。



でも、やはり甲子園球場の雰囲気はたまりません。

また、来年の夏。



余談ですが、3塁側ベンチ上に座っている私の姿が

ちょくちょくテレビに映ってしまっていたようで、

数人の友人たちからメールで、またTwitterで連絡がきました。

恥ずかしい。

『稲葉さん、僕はあなたの教え子です』 日々

昨夜、帰宅すると箱詰めの梨が届いていた。毎年、この時期になるとおいしい梨を送ってくださるその方との出会いは、亡くなられた稲葉光雄さんとゴルフをご一緒したことがきっかけだった。私と同じ梨が、稲葉さんのご自宅にも届いたはずだ。でも、稲葉さんの口に入ることなく、お供えに変わってしまうとは。

僕は稲葉さんのことが好きだった。思い上がっているわけではないが、稲葉さんもきっと僕のことを気に入っていてくれたと思う。稲葉さんのご子息と私は、同じ98年に慶大を卒業していることもあり、言ってみれば自分の子のような感覚だったのかもしれない。何度も食事をご馳走になったし、下手な私を誘ってくれてゴルフもご一緒させてもらった。私も稲葉さんと話をしたいがために、試合がなく、報道陣もほとんどいない練習日や遠征日にナゴヤ球場に行った。稲葉さんも、僕を見つけると遠くからでも大きな声で「大澤さ〜ん!」と手を振って呼び寄せた。その声はいまでもはっきりと耳に残っている。稲葉さんも僕も野球が大好きで、なかなか話は終わらない。「大澤さんと話しているときが一番楽しいわ」といつも言ってくれた。嬉しかった。また、多くの選手が私たちの会話に加わってくれた。これも稲葉さんの人柄だ。先日、ある質問をしたときに「さすが大澤さん、よくそこに気がついたね。コーチになれるよ」と褒められたときには、「稲葉さんに認められた!」と誇らしい気持ちになった。たった2か月前のことだった。

6月15日、稲葉さんに話があると呼ばれた。今年に入ってから不整脈がひどく、心臓の手術をすると告げられた。「心臓ですか?」と私もさすがに心配になったが、稲葉さんは「簡単な手術だから99%大丈夫。でも、場所が場所だから、大澤さんには話しておこうと思ってさ」と笑いながら話した。選手には秘密、一部の関係者しか知らない稲葉さんの心臓の手術。7月10日、入院前日もナゴヤ球場にいた稲葉さんに私は会いにいった。稲葉さんは私の手を取り、自身の心臓に持っていってポンポンと叩いた。「これで大丈夫。さようなら」と笑っていた。もちろん「さようなら」は冗談で、手術後数日して、稲葉さんはグラウンドに戻ってきた。8月2日付のブログに掲載したような、元気な姿で。

稲葉さんは、自分の寿命についてよく話す人だった。「いつまで生きられるかな」というようなことを、よく言う人だった。これにはわけがある。稲葉さんは3人兄弟だが、おふたりともいわゆる「早死」だった。お兄さんが50台後半でお亡くなりになり、稲葉さんも「その年齢になるのが恐いんだよ」と言っていた。その年齢を過ぎたとき「これで当分死なない」とホッとしたそうだ。手術後も「あと20年くらいは生きられそうだ」と言っていた。ひと月も経たずにこんな最悪な日が来てしまうとは、誰にも想像できなかった。

もうひとつ。稲葉さんは「野球解説者」としてのプライドが高い人だった。ご自身がラジオ・テレビの解説担当でなくても必ず球場に来て、スコアを記入する。とにかく中継を聴く・観る。そして「◯さんはいい解説をしていたね」「◯さんは勉強不足」と感想を言ってきた。そんな稲葉さんも、解説者としての自信をつけるまでは時間がかかったようだ。2002年、稲葉さん17年ぶりの野球解説復帰の日、実況は僕だった。先発は山本昌選手。稲葉さんの教え子と言ってもいい山本昌選手だけに、稲葉さんもいろいろ思い出話などを準備してきたのだが、山本昌選手がメッタ打ちに遭い序盤KO。何も言うことがなくなってしまうようなワンサイドゲームからの解説者人生のスタート。あれから何度も僕たちはコンビを組み、彰子夫人が放送を聴いて感想を言い、(私が言うのはおかしいが)稲葉さんは素晴らしい野球解説者になった。稲葉さんは「大澤さんに助けてもらった」といつも言うが、いやいや、僕たちこそ助けてもらい、勉強させてもらった。

今だから言ってしまうが、稲葉さんはもう来年はユニホームを脱ぐつもりだったようだ。体力的なこと、健康面のことがあったのかもしれない。「大澤さんと野球中継をするのが楽しみだよ、ホント」と、会うたびに、本当にいつも会うたびに言っていた。ナゴヤ球場の2軍戦、ネット裏でチャートをつける稲葉さんに「大澤さん、ここ」と言われ、必ず隣に座らされた。「解説の練習をしないと」と言って。残念ながら、その日は来なかった。

ここまで読んでくださった方はお気づきかもしれない。稲葉さんは、自分の息子と同級生で、27歳下の私のことを「大澤さん」と言う。それが稲葉さんだ。最後に話をしたのは7日火曜日、携帯電話で。内容はどうでもいい、バカバカしい話。あれだけ野球の話をしてきたのに、最後の会話があんな話とは。テレビ愛知高木アナと3人で焼肉をご馳走になりながら、延々と下ネタを話し続けた僕たちの最後の会話には、野球の話は似合わなかったか。あの日は稲葉さんと過ごした、最高に楽しい夜だった。

15日水曜日、中日対巨人。稲葉さんの葬儀のその日、僕は実況担当です。天国にまで届くような大きな声で実況します。稲葉さんが「最高の投球フォーム」絶賛するエース吉見一起選手が、稲葉さんをきっと唸らせるはずです。

稲葉さん、ありがとうございました。「早く結婚して、ウチの近くに住め!」と言われていたのに、実現できず申し訳ありませんでした。僕はプロ野球選手ではありませんが、間違いなく稲葉さんの教え子です。




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