アナウンサー 一覧に戻る

ゲンカレチ 専務車掌 源石和輝

  • radiko.jp

カレンダー

ブログ内検索

RSS2.0

[login]

a-blog cms

ココロのアナ 定期列車

松原敬生さんが11月22日亡くなった。東海ラジオの歴史を支えたアナウンサー。いまも心にぽっかり穴があいている。


2016年9月21日 東海ラジオ大感謝祭特番で

アナウンサー生活を始めた1995年。松原さんは平日午後のワイド番組『ぶっつけワイド』パーソナリティとして輝いていた。また歌手として真咲よう子さんとのデュエット曲「いつも側にいて」をリリースしたばかり。ラジオ単営局でこれほどスター性を兼ね備えたアナウンサーを他に知らない。これくらいぶっ飛んでないと生き残れない!入社早々強烈なインパクトを与えた先輩だった。ぶっつけワイドでは4月の木曽三川公園での公開生放送後にステージで初お披露目。6月2日には初鳴きを兼ねて出演した。正直フワフワとしていて何を口走ったか覚えていないが、ベラベラとしゃべりすぎて松原さんを呆れさせたような記憶だけはある。アナウンス課長時代は本番中にアナウンサーのシフトをつけ、自分で定時ニュースを読む離れ業をやってのけていたという。制作部長としては1997年の大改編で『かにタク言ったもん勝ち』などを立ち上げた。アナウンサーとして、パーソナリティとして、東海ラジオ社員として、歌手として。それぞれを全うしたのが松原さんだった。そしてどれだけ幅広く活躍しようとも、終生アナウンサーであることをベースに置いていた。夢破れてもなお野球実況へのあこがれを持ち続けたこと、晩年までひとりスタジオにこもってニュースの練習をしていたことがそれを示す。松原さんのアナウンサー生活は52年。うち半分ではあったがいろいろなことを吸収させてもらった。語録で振り返りたい。


同日 オアシス21で(左から松原さん、成田香織さん、小島一宏さん、青山紀子さん、源石)

「アドバルーンを揚げよ」…1995年、研修で真っ先に言われる。好きなことを持って一芸に秀で、さらにそれを周りに伝えよという意味。松原さんにとって歌がそうであったように、源石は好きだったが他人に言うのが恥ずかしかった「鉄道」というアドバルーンを揚げることを心に誓った。

「もっとケンカせよ」…理不尽なことには相手が先輩であろうと歯向かっていた若かりし日の源石。それを見ていた松原さんは「不満を我慢して蔭口を言うくらいなら、はっきり相手に伝えればいい」と支えてくれた。

「自分だけが正しいと思うな」…2003年、松原さんや坂口美奈子さんと『さか松ゲン』というワイド番組を担当していたときのひとコマ。本番中腹の立つことがあってスタジオを飛び出した源石に終了後、正義感が強すぎて他者の正しさを認めない様子を諭した。喜怒哀楽は見せても持ち場を放棄してはいけない。「ケンカせよ」と対をなすひとこと。


引退の日、元スタッフから贈られた懐かしい写真たち

「まんべんなく」…2005年、初の番組ツアーが決まったときにかけられたことば。ツアーやイベントだけでなく、日ごろの番組からリスナーと対等に接するようにというパーソナリティの心遣いを教わった。

「おまえさんがしっかりしないでどうする」…2014年、『モルゲン!!』終了が決まって知らぬ間にスタジオ前の廊下を背中を丸めて歩いていたのだろう。松原さんの一声でシャンとした。

「アナウンサーがスターにならなきゃいけないんだ」…地元に居を構え、毎日同じマイクに向かい、リスナーと苦楽をともにするのがラジオのアナウンサー。本人は語らなかったが、看板番組を長く務めていた一方で誹謗中傷や嫉妬も数多く受けていたという。そんな松原さんだけにこのことばには重みがある。


引退放送で次男こてつと一枚。誕生の際は『ひるカフェ』代打も務めてもらいました

こうやって並べてみると、松原さんには自分の感情の抽斗をすべて開けられていたような気がする。逆に松原さんの抽斗からもいろいろなものを拝借した。いま東海ラジオで番組を作るすべての人が、松原さんからバトンを託されている。心の穴は、アナウンサーの心意気で埋めていこう。松原さんありがとうございました。空の向こうでもリスナーでいてください。


【画像クリックでradikoへ】松原敬生追悼番組「ラジオと共に半世紀~ラジオで笑って、ラジオで泣いて~」

11月29日日曜13:15から、特別番組『ラジオと共に半世紀~ラジオで笑って、ラジオで泣いて~』(3月30日放送)を追悼番組として再放送します。ナレーションは源石が務めました。これも何かのご縁なのでしょう。松原アナの52年の軌跡、どうぞお聴きください。