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村上和宏の情報ちゃんぷるー

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スコアラーのアルバイト募集中

5月2日からホームページでご案内しているように、ガッツナイターの中継をお手伝い頂くアルバイト(スコアラー)を募集しています。

ガッツナイターやガッツナイタースペシャルの中継で、実況アナウンサーの横でスコアをつけてもらう仕事です。
高校や大学で野球をやっていた、もしくはマネージャーをやっていた方、現在大学で野球をやっている方など既にスコアをつけることが出来る方が対象です。
性別は問いません。

こちらの指定した日にナゴヤドームに試合開始の1時間前までに来て頂ける方をお待ちしています。

市販の写真貼り付け履歴書に必要事項を記入の上、東海ラジオ報道部「ガッツナイター スコアラー募集係」まで郵送して下さい。

厳正なる審査の上、面接にお越し頂く方にはこちらからご連絡致します。

尚、お送り頂いた履歴書はお返しできません。予めご了承下さい。

皆様のご応募、お待ちしております。

写真が…。


半年という時間があっという間に経ってしまいました。

それもこれも、写真を処理できないから・・・。
この写真、つば九郎から送ってもらったのですが
表示されるはずの「TOKAI RADIO」の文字が出ない!

写真を使うには処理してから、ということなのですが
私の力ではどうしてもうまくいかない。

写真ばかりがいたずらに溜まっていきます。

この写真は今日使わないと意味がない。

ということで、今日のヤクルト―中日戦は中止です。

山本一義さんを偲ぶ

10月3日、カープの4番として長く活躍され現役引退後は当時の近鉄でバッティングコーチ、ロッテで監督、カープでヘッドコーチなどを歴任された山本一義さんが9月17日に亡くなられていたことが公表されました。

山本さんがカープでヘッドコーチに就任された1994年に知り合うご縁を得て、特に私が広島出身ということを知ってからはカープの名古屋遠征のときには毎日のように食事や飲みにつれて行って頂きました。
二人ともべたべたの広島弁でそれこそ日付が変わるまで杯を交わしました。

入社するまで野球はただ見るだけ、スポーツANとしてまだ駆け出しの私に時に厳しく、時にやさしく、本当にかわいがってくれました。

私の亡くなった父と一歳違いということもあり、本当の父親のような存在でした。

山本さんは私のことを「むら」、私は山本さんを「かずさん」と呼ばせてもらっていました。
今でも低いドスの効いた声で「おー、むらー」と私を呼ぶ声が忘れられません。

亡くなってこんなに時間が経ち、既に家族葬を済ませているということですのでここでお別れをさせて頂きます。

かずさんへ

かずさん、かずさんとの一番の思い出は「むら、野球を1000試合見ろ。プロ野球じゃなくてもいい。高校野球でも草野球でもいいから野球を1000試合見ろ。そうすれば野球の何たるかが見えて来る」と言われたことです。
まだスポーツANとしての第一歩を踏み出したばかりで右も左もわからないことだらけだった私は、かずさんの言葉を信じて頑張って数を数えながら数年かけて1000試合突破しました。
広島出張の際、既にユニフォームを脱いで解説者になられていたかずさんに「1000試合以上野球見ました」と報告すると「何でや?」と意外な答え。
事情を説明すると「わしそんなこと言うたんか。我ながらええこと言うのー」といって豪快に笑い飛ばされました。
そのときは唖然としましたが、今となってはこれが一番の思い出です。

あれから20年近く。見た試合の数は1000試合をはるかに超えましたが私に野球の何たるかは見えているのでしょうか。
それを確認したくても、もうそれも叶いませんね。

原爆で焼け野原となった広島での子供時代の思い出に始まり、超がつくほどのスーパースターだった高校、大学時代の話し、一旦は高校の大先輩鶴岡一人監督率いる南海に入団を決めながら、後の総理大臣、広島出身の当時の通産大臣池田勇人氏に直々に呼ばれカープ入団を懇願されて故郷に骨を埋める覚悟を決めた話し、1975年初優勝に至るまでの裏話、ロッテ監督時代、落合博満に三冠王を取らせるための苦労話、江藤、金本、前田が入団してきて鍛えた話し、バッティング論、コーチ論などなど、かずさんがしてくれた話しは野球のことはもちろん、人の生き方に至るまで本当に数知れません。
その一つ一つがキラ星のような思い出です。
私の一部は山本一義によって作られたと言っても間違いありません。

正義感が強くて曲がったことが大嫌い、頑固で一本気。
そのくせやさしくてとてつもなく懐が深い。

そんなかずさんが大好きでした。
ここ数年はマツダスタジアムで年一回くらいしか会うことが出来ませんでした。
もっともっとかずさんの話しが聞きたかったです。

9月17日といえば、私がたまたま出張で広島にいた日ですね。
これも何かの縁だと思います。

最後の最後まで「水を差したくない」と自分が亡くなったことを伏せるなんてカッコつけて、かずさんらしいですね。

かずさん、私は本当に本当にかずさんのことが大好きでした。

かずさんに会えて幸せ者でした。

これからも出来の悪い私を見守って下さい。

闘病、大変だったと思います。ゆっくり休んで下さい。

合掌

ウドバーハジーセンター 4 info

ここの目玉は数あれど、他の博物館ではお目に掛かれないのがこちら。



スペースシャトル「ディスカバリー号」です。

もちろん、何度も宇宙と地球を行き来した本物。
この広大なウドバーハジーセンターが作られた理由の一つが将来的にスペースシャトルを展示するためでした。

スペースシャトルを輸送するために機体の上に巨大な荷台を取り付けたジャンボジェット、ボーイング747で隣接と言うか敷地内であるダレス国際空港まで運ばれたあと、この建物に入れられました。
というか、運んできてすぐに展示できるように予めこの場所が選ばれたとも言えます。

蒲鉾型の建物に直角にもうひとつ蒲鉾型の建物がくついている構造で、くっついたほうがディスカバリーや宇宙開発関連の展示物が収められています。






なかなか実際の大きさが伝わりにくいですが、想像よりもはるかに大きなものでした。

大気圏に再突入する際の熱から機体を守る耐火タイル(チャレンジャー号、コロンビア号事故の原因にもなりました)を見ると、強烈な熱にさらされた痕がくっきりと残っています。








スペースシャトルのほかにはこんなものが展示されています。




スペースシャトル計画を進める中で、宇宙空間と地球を行き来する機体を開発する過程で作られ、数々の実験が行われたアポロの帰還船に似た構造のものです。

因みに「宇宙開発」と書きましたが、このスペースに一番たくさん展示されていたもの・・・

ミサイルです。

結局、ミサイル技術とロケット技術は表裏一体なのです。

北朝鮮が「ロケット」と言い張ってミサイル開発をしているということはこういうことなんだな、と妙に納得しました。

ウドバーハジーセンター 3 info

今回の旅行の主な目的はこのウドバーハジーセンターへ行くことでした。

というのも、エノラ・ゲイが展示してあるからです。



エノラ・ゲイ

広島に原爆を投下したB-29の愛称です。
父の生家は爆心地から東へおよそ700m。
一家全員被爆しましたが、奇跡的に一人の死者も出ませんでした。

とはいえ、原爆でそれまでの生活は跡形もなく吹き飛びました。
村上家に代々伝わっていた甲冑や刀も失われ、これは祖母が随分と悔しがっていました。

我が家をはじめ、広島の人々の人生を大きく変えたたった一発の原爆。
これを世界で初めて投下した飛行機をどうしてもこの目で見たかったのです。





内部は原爆を搭載するために改造されていて、普通のB-29と比べると全く違う構造になっているそうです。
垂直尾翼に書かれたRマークは、原爆投下に従事する空軍の特殊部隊のマーク。
空軍内でも極秘プロジェクトだったそうです。

歴史を変えたといってもいいこの機体。

複雑な気持ちでじっと見入っていました。